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日常の感覚を掲載しております。同時にリンク集としても機能していますので併せてご覧頂ければと思います。リンク先は日本語のサイトが殆どですが、一部海外のサイト混在していますので翻訳が必要な場合は左メニューのオンライン翻訳サイトをご利用下さい。記憶喪失になることが多いのであしからず。また、敬称は省略させて頂いております。 2003年/ 3月/ 4月/ 5月/ 6月/ 7月/ 8月/ 9月/ 2003年9月1日(月) ■ルチアーノ・ベリオ氏、77歳で死去 今頃知ったのだがイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオ氏が5月27日にローマの病院で亡くなっていたらしい。 ベリオ氏は現代的な意味での発明豊かなアイデアの泉を持っており、例えばほぼ同世代の同じイタリアの 前衛作曲家ルイジ・ノーノは厳密且つ禁欲的な作曲方法によって内的な集中による緊迫した音のドラマを追求する傾向が あったとするならば、ベリオ氏は多彩で発明力豊かなタイプの作曲家であって、音楽につながるあらゆる要素を総動員させることにより、 楽曲を演劇的なドラマにまで発展させることにが出来た様な気がする。烏滸がましい限りだが、 自分もあらゆる要素を総動員させる姿勢は見習いつつ活動していきたいな。と。 2003年9月2日(火) ■「烏滸(おこ)がましい」の語源 自分で書いといて「烏滸がましい」の語源がイマイチ掴めなかったのでちょろっと調べてみたら、 読んで字の如く『烏(からす)が滸(水際)に集まって無秩序にガヤガヤいっている様子』らしい。 で更に調べ続けると『漢の時代に漢民族はまだ多く黄河、楊子江のあたりに集まっており、 南方に充分な展開を見せていなくこの南方人は中央部の人たちから見る、ガヤガヤやかましい連中で中央の人たちは南方人を、 「烏滸(おこ)」と呼んだ。その後、奈良・平安期にこの言葉が日本に入ってくると、日本には「烏滸がましい」ということばができ、 そして室町期に入ってからはこの「烏滸がましい」は「尾籠(おこ)がましい」というアテ字で書くようにもなった。』というのだ。 なるほどなるほど。 2003年9月3日(水) ■Mozilla5.0におけるCSSのバグ Mozilla5.0系で「overflow:auto;」「overflow:scloll;」の動きがおかしいので、調べてみたらイイサイトをみつけた。 やはりバグらしい。よってorverflowを使用するのは避けた方がよさそうだ。やれやれ別の方法で回避するとしますか。 ・Mozilla5.0におけるCSSのバグ:http://cssbug.at.infoseek.co.jp/detail/mozilla.html 2003年9月4日(木) ■デジタル・イメージ 仕事柄gettyimages.comなどでデジタル・イメージを漁る事が多いんですが、その度に「なんでこんなに高いんだろうか?」と思うのです。 そりゃ使い勝手のいいイメージは揃ってるけど一枚40ドルは戴けないよ(ライセンス形態にもよりけり)。なので、 ここではトップページのキーヴィジュアル用に一枚買って、他のイメージは安上がりなパッケージ物を使うか DAJなど使うかするしかなのである。でもgettyimages.comで資料寄せるとPhotodisc、Image Bankなどの 分厚い素材見本が10冊以上送られてくるのは嬉しい。おまけにCD-ROMも数枚付いて来てちょっとした デザイン・オフィスなら並べとくだけでもハッタリの小道具になる。 あ、もしやこの素材見本のおかげで一枚の単価が上がってるのだろうか?いやいやそんな簡単な話でもあるまい。 で、これって個人で頼んでも送ってくれるのかな?。多分無理だろね。 2003年9月5日(金) ■新宿UNIONにて ルチアーノ・ベリオ、ブラッド・シャピック、そしてWinter & Winterからでてるよくわからない アコーディオン奏者スティアン・カシュテンセンのCDをそれぞれ購入。このスティアン・カシュテンセンがイイ! フリージャズバンドかと思えばバルカン風味を基調にブルガリアン・ボイス、タブラのリズム、 挙げ句の果てには中国っぽい奇妙なコーラスまで破天荒にこなしてます。 これがまた絶妙ですばらしいのです。 2003年9月6日(土) ■Max/MSPとワカメ 5分前の出来事。ワカメかと思ったらゴキ夫だった。5分ほど格闘し、そのままお別れした。気を取り直して、再度Max MSPに向かう。もはやいつもの風景。 2003年9月7日(日) ■Max/MSPとイレイザー 朝からPowerBookG3に向かって10/7(火)のライブの為のNanoPianoを音源とした自動演奏パッチをシクシク制作。次第に脳みそが疲れたのでTVを着けると、 今や州知事候補ことシュワちゃんの「イレイザー」が放送中だった。なにを隠そう、私は無類のシュワフリーク。 見逃す訳もなかろう。でもこれは面白くない。 でもシュワフリークとしては見逃す訳にもいかない。 では何故面白くないと言えるのか?何故なら、 シュワちゃんは空を飛んではいけない。だって似合わないから。 シュワちゃんは白衣を着てはいけない。だって似合わないから。 シュワちゃんはPCを触ってはいけない。だって似合わないから。 以上、 マッチョボディー故の性、以後それだけのは自覚して今後も活躍して戴きたい。ついでに言うなら、マッチョなあなたはやっぱり「コナン・ザ・グレート」がハマり役ね。ボンバータが待ってるよ。と、言う訳でシュワに詫びつつ再度Max/MSPに向かう。 2003年9月8日(月) ■携帯灰皿を拾う 新宿御苑をぶらぶらしていたらおしゃれな携帯灰皿を拾った。 雑貨屋でよく見かけるヒモのついた大判焼きみたいなやつ。 ギラギラしてる。 2003年9月9日(火) ■父の誕生日であり阿部薫の命日であり。 1978年9月9日彼は亡くなった。 その頃私は1歳と半月、ちょっとだけ同じ時代を過ごした。 今は音でしか逢えない彼。 だが、それで十分だとも思う。 それ以上は無く、それ以下もないのだから。 2003年9月10日(水) ■衣装デザイナー、ワダエミさん 映画「英雄」の衣装、凄いなと思ったらワダエミさんでした。またやられた〜って感じです。 この方、他にもメイベル・チャン監督「宋家の三姉妹」やピーター・グリーナウェイ作品、 黒沢作品、また三輪明宏さんの舞台「毛皮のマリー」グリーナウェイのオペラ「フェルメールの手紙」等、 その圧倒的な色彩感覚に毎度驚かされます。日本人の繊細な感覚というのはやはり凄いものです。 そのオペラ『フェルメールの手紙』は演出がグリーナウェイ、衣装がワダエミさん、 音楽がアンドリューセンという豪華なコラボレーションですよ。再演してくれないかなぁ。 ・ワダエミ:http://www.kiryu.co.jp/wadaemi/ 2003年9月11日(木) ■久々の東京タワー 久々に東京タワー内に在るジャーマン・ロックの聖地「コズミック・ジョーカーズ」に向かう。 アモン・デュール、ラ・ノイ!、ポポル・ヴー、クラウス・ディンガーのソロなどの掘り出し物は無いかと漁ってみたが、 置いてあった物(CD)はほとんど持っているので、何も買う物はなかった。ちょっと残念。 あと、ここはほぼ全部視聴出来るのがいいのです。 2003年9月12日(金) ■ジャーマン・ロックに対する個人的な重要性 今部屋ではアモン・デュールの『Airs on a Shoestring (Best of...)』の3曲目に収録されている「One Moments Anger is Two Pints of Blood」が流れている。 全体的に決して明るいトーンでは無い12分半に及ぶこの曲は僕にとってとても重要なウェイトを占めている。 その理由を挙げれば切りが無いのだが否定的な見解から挙げると、 まず僕は俗に言うディストーション効かったギターの音色があまり好きではない。 つまりその手法があまりにも安易な気がしてならないのだ。 今日ギターを操る諸子はその手の音はジミヘンで極みに達している事に気づいていながら、 いや、気付いているが故に、当たり前の音として浸透仕切っているが故に、安易にその方法に身を任せるしか無いのかもしれない。 しかし、それはとても危険な事である。なぜならそこで一つのクリエーションを破棄しているに他ならないからだ。 新しい曲であれ、新しい音であれ、某かを創造しようとするのであれば、本来そのディストーション・サウンドさえ根本から見直して行くべきではないのか? 話を戻すと僕がジャーマン・ロックを好むのはそういった点で個人個人のモチベーションが高い気がするのだ。 今名のある独ミュージシャンの大凡(おおよそ)が現代音楽から影響を受けたり、もしくはインスパイアされている時点で大きく異極化するのだろうが、 それにしても皆盆百のロック・ミュージシャンで無いことは音を聴けばわかるし、説得力もある。 更に続けると、僕の場合のクリエーションとはそもそも普通にポップスを好む人にも理解が及ぶ範囲で提示しなければ意味が無いと考えている。 方法論ありきの音楽はもはや音楽ではない。つまり音を楽しむ対象ではないという事だ。 方法論ばかり先行させるインテリ坊ちゃんが奏でる音は何の説得力も感じないし、持っているとも感じない。 また、どう能書きを垂れようが聴き手としては一瞬の解釈で終わってしまう。心には残らないのだ。 思惑として非常に能動的に音楽に参加させようとしているのかもしれないが、遙かに受動的に成らざるを得ない楽曲形態。 そんなのは波形の研究者としてでも生活していって頂きたい。たまたま音を扱うから音楽を演る、という面は辞めて戴きたい。 結局、方法論やマテリアルなんてご託を並べること自体「音楽」の上ではクソの役にも立ちゃしないのだから。 2003年9月13日(土) ■ブロンテ姉妹 最近また本が増えてきたので本棚を整理していたら昔読んだシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」が出てきた。 美人ではない孤児のヒロインとブサイクな男とのラブ・ロマンスと言うあまりにも大衆性を帯びすぎたシナリオは 当時の自分としては全くもって共感・感動を覚える内容ではなかった。 また、エミリー・ブロンテの古典文学「嵐が丘」も同様で「お嬢様は居ましねぇ」とか訳のわからない翻訳ぶりにも参りながら読んだものの理解不能。 映画を観れば理解出来るんじゃないかとローレンス・オリヴィエがヒースクリフを演じたモノクロ映画「Wuthering Heights(嵐ヶ丘)」も観たのだが、 やはり分からない。この感覚は何なんだろうか。英国では忠臣蔵的ポジションであると聞くがホントにそうなのだろうか? 結局おどろおどろしい血縁関係の因縁じみたオカルト物としか解釈出来ないまま今日に至る。 一方、同じく本棚から出てきたドストエフスキー「地下室の手記」、カフカ「変身」などは今読んでも内実に迫るものだろう。 これらはいずれ再読してみようかと思う。 2003年9月14日(日) ■リズムの本質 / L・クラーゲス 先日の本棚整理のつづきで出てきた本『リズムの本質』。 これはドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・ クラーゲスによる「リズム」と云う多義的な言葉に布石を投じる一冊で、 水波等の自然的なものから人為的生成による音楽、絵画そして文学等々における反復ないし拍の問題について記述されている。 いわゆる「生の哲学」という分野に含まれる内容になるのかもしれないが、ドイツ神秘主義直系の霊的衝動が全開の内容でもある。 規則的に刻まれた拍子は受容者を覚醒させ夢見心地にさせる。 すると意識と無意識が対立するように、拍子とリズムは対立関係にあることになる。 対立関係とは、リズムが精神作用の生み出す拍子に支配されると、 それによってリズムは生命力を減衰させてしまうということである。 だが果たしてリズムと拍子との関係は、そのような単純なものなのだろうか?。 電車に揺られているとき、機械的な拍子音を延々と聴いているのにもかかわらず 心地よくゆらゆらと眠りに誘われる状態は誰しもが体験していることだろう。 この場合、クラーゲスによればガタンゴトンという車輪から放たれる一定の拍子と振動が、 受容者によって周期的に変化するリズムに置き換えられ、 今まさに運ばれているという感覚を体現し同時に安堵感も増長されるのである。 また、赤ん坊の揺り籠を揺らすときに、 一方の側から他方の側へ移行する転向点で一瞬止め、 そのことによって切れ目をつけ拍子を強調したら赤ん坊はゆっくり寝てなどいられないだろう。 揺りかごで重要なのはあたかも終りなく続いているかのような流動状態を作り出すことであり、 そのための手段として互いに反対方向へ向かう分節をもった周期的変化が必要なのである。 付け加えて私的な見解を簡潔に云うと、 半永続的な「一定の振動・拍・動き」はあらゆる要素により安堵感と不安感、不快感が180度逆転するものでもあると考え得る。 その要素の一つとして挙げられるのはその行為が「能動的か受動的か」である。 数個並んだドラム缶を反対側に運び、全て運び終わるやいなや今度は元の側に戻す (以下延々繰り返し) という拷問があるが、 この能動的行為 (正確には半能動的行為) は「無意味」そのものを体現する、或いは、体現させることに他なら無い。 「無意味」なものに関して人間は不快感を感じ、次第に不安感に駆られ、最終的には苦痛以外の何モノでも無くなる。 ・不快感 → 不安感 → 苦痛 → 思考回路の分断化、という流れである。 一方、先出の電車や揺り籠の例もそうであるが、 受動的な行為になると途中経過は一転する。 受動的で或る以上、肉体性は伴わない事もあるが、初期段階に置いての不快感は一様でもある。 にも関わらず、次の段階に当たる不安感の部分が快感に置き換わる可能性は極めて高い。 もしくは、その快感も越えて一気に思考回路の分断に結びつく事も考え得る。 ・不快感 → 思考回路の分断化、という流れである。 どちらにせよ「一定の振動・拍・動き」は最終的に思考回路の分断化を招くことには変わ無く、向かい行く先は同じなのかもしれない。 2003年9月15日(月) ■クラリネットの個人的な使い方 / 特性 今は自分の演奏においてクラリネットの占める割合は非常に大きい。 特にソロの場合はクラリネットの持つ基本的な特性とは別の「特性」を引き出す演奏を続けていきたいと考えている。 では、そもそもこのクラリネットが持つ基本的な特性とは何かをあらためて考えてみたい。 まず、シングルリードの木管楽器であるクラリネットは見て分かる通り円筒形であり バスやアルトなど大小どのようなサイズの物であってもそれは同じである。 円筒形の場合オーバーブローした際に円錐形のサックス等とは違い12度、つまりオクターブ+5度 (※1) が出音される。 そして更にクラリネットは現在の管楽器の中では唯一の閉管式 (※2) の楽器「閉管パイプ」である為、 オルガン等と同様、基音も同じ長さの円錐形楽器よりもおよそ1オクターヴ低くなる。 これらの事から他のリード楽器(サックス等) やフルートに比べ、圧倒的に広い音域をカバーできる訳です。 あと一つ、クラリネットは奇数倍音が出ないという他の楽器には見られない独特の倍音組織を持っています。 ここで云う偶数 / 奇数とは波長の「山(腹)」と「谷(節)」の事で数値的ににまとめてみると ▼開管楽器の場合 (サックスなど、殆ど) 開管式の楽器は、管の両端の空気震動が大きく、波長は管の長さの「2倍」であることから、 ・基音は波長の1/2 (0.5 ×λ1=k) ・第2倍音は波長の2/2 (1.0 ×λ2=k、∴2×λ2=λ1) ・第3倍音は波長の3/2 (1.5 ×λ3=k、∴3×λ3=λ1) ・第4倍音は波長の4/4 (2.0 ×λ4=k、∴4×λ4=λ1) ・第5倍音は波長の5/2 (2.5 ×λ5=k、∴5×λ5=λ1) ▼閉管楽器の場合 (クラリネット) 閉管式の楽器は、管の片方の空気震動が最も大きく、波長は管の長さの「4倍」であることから、 ・基音は波長の1/4 (0.25 ×λ1=k) ・第3倍音は波長の3/4 (0.75 ×λ2=k、∴3×λ3=λ1) ・第5倍音は波長の5/4 (1.25 ×λ3=k、∴5×λ5=λ1) ・第7倍音は波長の7/4 (1.75 ×λ4=k、∴7×λ7=λ1) ・第9倍音は波長の9/4 (2.25 ×λ5=k、∴9×λ9=λ1) λ:波長 / 波が1回振動する際に進む距離(単位は m:メートル) ν:振動数(周波数) / 1秒間に波が振動する回数(単位は 1/s もしくは Hz:ヘルツ) v:音速 / 音の速度(単位は m/s)。1秒間に音波が進む距離と考えてもよい。 k:管の長さ となります。 ※1) クヴィンティーレン:オーヴァーブローが12度、つまりはオクターブ + 5度上になること オクターヴィーレン:オーヴァーブローがオクターヴ上になること ※2) 管の一方が塞がれている管楽器のことですが、ここでいう閉管式とは、 正しくは「閉管式の音震動を利用した管楽器」ということです。 閉管式の楽器は、管の片方の空気震動が最も大きく、波長は管の長さの4倍です。 クラリネット以外のほ管楽器はとんど開管式で、 これらは管の両端の空気震動が大きく、波長は管の長さの2倍です。 2003年9月16日(火) ■クラリネットの個人的な使い方 / 演奏方法 クラリネットのこれらの特性を踏まえた上で、 僕は現在、昨今流行している「ラップトップ(PowerBookG3) + 楽器」という構成を採って活動してます、 しかし、ラップトップ・コンピュータを使うのは上記に挙げた「基本的な特性」を別の特性、 強いては「未踏の段階」へと拡張させる為の方法、または感覚でしか無く、 広義ではクラリネットを使ったトーン・マテリアル (音その物の構成要素、素材) の追及に過ぎないと考えています。 それには一般に伝わる特殊奏法 (重音奏法、循環呼吸等) ではなく、 且つアヴァンギャルドな奏法 (ゴムホースを差し込む、ベル側から吸い込む、マウスピースを抜いて管体だけで吹く、マウスピースだけで吹く等)でも無い別な方法で 「未踏の段階」へと拡張させて行きたいのです。 |
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