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・インタビュアー:古玖嵯憲治 ・テープリライト/注釈:長谷川里見 『無心と思考』 即興で演奏をする事を、意識し始めたのはいつ頃からなんですか? 原田)今現状でも「即興」と云う意識なんて無いですよ。成長の観察です、自分自身が産み落としたモノの観察。 即興はおろか、それ以前にまともな曲一個も出来ないすし(笑)。 意識してると云うならば「無心」になること、ですね。毎度毎度そうなれているかは別として。 「無心」と言っても、ステージ直前まではいろんなこと考えてますよ。レベルの差はあれど、常に考えてます。 いろいろ考えて、考えて、考え抜いて、その中で矛盾も出てくる、頭の中で、それも考えて。 そして、直前になったら無心に成れって考える。思い込む、念じ込むんです。 それまで考えたことをすべて捨てて・・・・・、捨てるんじゃないな、確実に身になっているものです。 直前までは、弁証法(*1)によって成り立たせるってことですか。 原田)いや、そうなのかも知れ無いですけど、弁証法とかって言葉を使う程の事では無いんですよ。 ほんと、ごく自然に。あまり言葉先攻で物事を考えたく無いので。 それが先に来ちゃうと理論武装の名を借りて、頭でっかちになりそうで。 表現にはならない。言葉によって安心と確信を得る行為は自己表現において致命的状態ではないかと。 それは、評論専門の方々にやって頂ければいい訳で。 結局その殆どが、己が成した事に対しての言い訳でしか無いですから。 続けますと"考えて捨てる" と云う話。思うに、捨てるのは不可能な事だと思いますよ。 それとまた、"考えている" とを公言している時点で、何か作為的と云うか、狙いが見隠れしているのでは、と感じてしまうんですけど・・・・。 だからその「無心」と云うのもまた同様で。 原田)人間、生物である以上何か考えてます。だから単純に脳がのっかてる訳ですよ。 その中で、一般に"考えても何もはじまらない" ってことを、よく言いますけど、 それは行動なり実行、遂行、その後、動かない、表現しないから言える事で、 それと、考えから導き出される結果だけを期待しているから言えるんですよ。 古玖嵯さんは "公言することは作為的、狙い" と仰いましたけど、考えなければそれすらも導けない。 中身ですよ、みんな考えてる訳ですから。大切なのはその中身です。 だから言葉だけで、と云うより、単語だけで物事を解釈するのは、非常に危険です。 言葉と云うのは自己解釈によるところが大きいですから。 古玖嵯さんの場合は "考える" と云う動詞に付属的、補足的な部分において "作為的な何かを伴う" 、と、そう捕らえいらっしゃるだけであって。 例えば一つの曲を聴いても受け手側にはいろいろな反応、解釈がありますよね?。良い悪い以外に。 単語一つとっても、同じ事だと思うんです。 だから言葉による誤解が生じやすい。 でも、こんな事言ってしまったら、何も言えなくなりますね。 それも一つの小さな矛盾。 その、リスクとまでは言いませんけど、矛盾と誤解は常に付いて回りますよね。 先程も言いましたけど、自分自身の中だけでも毎日沢山の矛盾が出てくるんですから。 結局、それを越えた部分、切り離された部分、 言葉が脳を通さない方向、感覚で捕らえ、動く。 これが「無心」だと思うんです。 それは言えますね。 原田)その「無心」に至る過程において "考える" と云うのは、非常に意味がある事なんですよ。 無駄な考えなど何一つもないんです。染込みますから。一見下らないと思う考えでも、其の小さな積み重ねですから。 先程の "捨てる" と云うのも言い換えれば「切り離す」と結べてしまう。 その考えを実行する段階で、実行する瞬間に背負っていたのでは、まずいですよ。鈍くなる。 「切り離す」、「切り離す」方向に持っていく。これが大切なんだと思います。 例え切り離したとしても、魂の宿り木としての肉体が覚えているんです。 頭三周して指先まで伝わるのと、指肉から指先に伝わるのとでは、全然違います。 経路が長い分、寄り道してしまうんです。 いや、いいですよ。考えたものを背負っていてもいいですよ、完璧に練り込まれたテクスチャーの上で演ろうと言うならば、執拗な事です。 しかし今現状、自分がそうなったら、ある種の、言い換えるなら安堵感を背負ったまま舞台に立つことになります。 質量的な制限があるにせよ、考え得る、そのものをすべて持ち込んだら安心な訳ですよ、単純に。起こり得るすべてにおいて弁解できるんですから。 沢山の荷物をあれこれしょって山に登るのと同じで、目的は頂上に登る、それだけなんですから。 極端かもしれないですけど、終いには "家まで持っていこう" となる訳ですよ。 それを実現させたホテル関係の社長だか会長だかがいるみたいですけど、 それは資本の元に成り立ってるから別として(笑)。 そうではないんです、今の自分は。安堵感から生まれるモノは無いんですよ。 提示されているものを元に演ずるのとは違うので。 『安堵感から生まれるモノは無い』 その山登りの例にしても、目的は人それぞれじゃないですか? その準備がたのしくて、結局それが好きだから山に上るとか。 下山者との通りすがりの会話が目的だったりとか。 それぞれ個人個人の解釈では、と思うんですが。その "安堵感から生まれるモノは無い" もしかりです。 原田)今は頂上って言い切ってしまいましたけど、己が向かわんとする先、その中の一つとしての頂上。 何でもいいんですよ。下山者との会話でもいいですし、向かわんとする位置や場所、環境や状態、気持ちとしての一例です。 それでも、そこまでの荷物はいらない訳じゃないですか。 はい。また同時に、私の場合その安堵感が物事をうまく運ぶって気もするんですけど。 原田)その「うまく運ぶ」と云うのは、そもそも甘えの上で成り立つ「うまく」じゃないでしょうか。 都合いい状態の中での「うまく」。自分に対しては危機的状況と思わざるを得ません。反面、その状態のままで死が訪れたら最良だとも思いますよ。不意の死なら尚更です。すべてタイミングの問題では在りますけどね。 自分だって甘えの中で死にたいと思いますよ、自分と云う人間に対して自分自身がそれを許せば。 そもそも安心って言葉は「先が見える、予測できる事」な訳で、これは危険なことだと思うんです。 "そうあってほしい"、"このままの精神状態を維持したい" と云う期待を孕むんです。 その裏打ちがあって安心した状態でいられる。例え "一寸先でも二寸先まででもいいから" と頭の中で理解出来ていたにせよです。 その上で安心した状態が創り出されているのは確かです。 しかし、その「先」が何かの要因で変化、屈折して我が身に降りかかってきた場合、ずばり期待ハズレな場合、 不快感が生まれ、不安に変わり、拒絶に向かっていく。その物事に対して。 拒絶の念をもって物事に接してしまったら、それこそ事態は深刻だと思いませんか? ですね。そこで自分の中に「是」と「非」が生まれる・・・・。 原田)そう、その「是」が1で「非」が100だとすれば、1でも無く100でも無く、「0」で接しなければならないんです。自分に対しても「0」で向き合う。 同時に、期待をするから「裏切り」も発生しますよね。嫉妬があって敵意があるように。 「期待」と云う語意から連想を進めて行くと、確かにマイナスなイメージが付きまといますね。 例えその通りになっても、当たり前と考え、そこで終わり。 原田)そう、終わりです。それで満足。満たされた欲求。それだけです。だから総じて「期待」は危険だと云うんです。安易にすべきでは無いんですよ。 つづく (インタビュー続きはテープリライトが完了次第アップいたします) ・インタビュアー:古玖嵯憲治 ・テープリライト/注釈:長谷川里見 (*1):弁証法 弁証法とは、もともと、"まず仮説を打ち立て、その可否を吟味する論理学的な手法" と考えられていたが、 ヘーゲルはそれを、「自己を検証し、内在する自己矛盾を止揚する理性の運動」ととらえた。 このテクストではヘーゲルの解釈を元にしていると思われる。 また、それをふまえて、後年エンゲルス(著名なマルクス主義哲学者の1人)は、 「理性の運動」としてではなく、「自然界の存在物の法則そのもの」ととらえ直し、 自然科学にも多大な影響を与えることになった。 |
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